もののふの学ぶおしへ

 
 
人の生死は常ならず
 
やすきかたきも流転する
 
善悪正邪もうらおもて
 
両者ほんらい無一物
 
おのれの分別すてきれば
 
すなわちまことの神のむね
 
諸法一切ありがたく
 
涅槃の境地へ連れいでなむ
 
 
 
 
 
 
 
 
人の道とは・・
 
 
 
〝否定される〟
 
ことから始まります。
 
 
 
どれだけ
 
才能が豊かで
 
実力があって
 
現実に強かったとしても、、
 
 
 
かならず
 
「潰れそうになる」
 
経験をするものです。
 
 
 
そうして、人は初めて
 
真の自己へと目覚めていくのです。
 
 
 
肯定されたもの
 
それを「否定」する。
 
 
 
すると、ようやく
 
無駄なものが削ぎ落とされて
 
万物をありのまま写す明鏡となる。
 
 
 
禅宗において
 
六祖慧能(えのう)より
 
重視されてきた金剛経の中で、
 
 
「般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)とは、
 
 すなわち般若波羅蜜ではない。
 
 それで般若波羅蜜と名づけるのである」
 
 
という一節が出てきます。
 
 
 
Aというものは、
 
Aではないからこそ、
 
Aなのだ。
 
 
 
・・・え?
 
 
 
と、
 
普通に聞いていると
 
何を言っているのか
 
ワケが分からない。
 
 
 
たとえば、
 
西野ゆきひろというものは、
 
西野ゆきひろではないからこそ、
 
西野ゆきひろというのである、
 
と言っているのです。
 
 
 
「あぁ、、西野さん、、、
 
 ついにイカれちまったのですね…
 
 ご愁傷さまです・・・」
 
 
 
と手を合わせられるかもしれません。
 
 
 
明らかに、
 
言っていることが矛盾している。
 
 
 
西洋的な論理体系からしたら
 
そもそも文章として成り立っていない。
 
 
 
しかし、この「矛盾」こそが
 
東洋思想の真骨頂であり
 
宇宙の〝真理〟があるのです。
 
 
 
つまり、真の〝西野ゆきひろ〟が見えてくるのです。
 
 
 
この矛盾こそ、
 
禅の禅たる所以(ゆえん)があり
 
ひとのひとたる所以がある。
 
 
 
ここで重要なのは、
 
「一度、否定される」
 
ということ。
 
 
 
これを人生に置き換えると・・
 
 
 
生まれてこのかた、
 
何もかも順風満帆(じゅんぷうまんぱん)だったり
 
 
 
「嫌なことから逃げ続けてきました!」
 
 
 
という場合、
 
本当の意味で
 
その人はまだ真の人生に
 
目覚めているとは言えません。
 
 
 
上手くいかなかったり、
 
一度、潰れそうになる経験をする。
 
 
 
そうすることで、
 
はじめて人は自分の無力を知り
 
万物に生かされていることを
 
冷暖自知(れいだんじち)として悟り、
 
〝霊性(れいせい)〟に目覚めるのです。
 
 
 
霊性とは・・
 
 
 
〝神性〟であり
 
〝仏性〟であり
 
〝真我〟であり
 
〝太虚〟であり
 
〝道〟であり
 
〝真・善・美〟
 
でもある。
 
 
 
ひとは〝霊性〟に目覚めてから、
 
いよいよ『本当の人生』を歩むのです。
 
 
 
いまや、信者が
 
日本全国で800万人にのぼる
 
浄土真宗の開祖「親鸞聖人」も、
 
流罪となり越後へ流されたことで覚醒したのでした。
 
 
 
とはいえ、
 
この〝霊性〟に目覚めるためには
 
なんども死にかわり、生まれ変わり、
 
魂が磨かれていく必要があります。
 
 
 
ある意味、
 
生まれることが肯定であり、
 
死ぬことが否定である、
 
とも言えましょう。
 
 
 
そうして、
 
肯定、否定が
 
相即相入(そうそくそうにゅう)する。
 
 
 
つまり、どちらも対立することなく
 
お互いに影響しあって成り立っている。
 
 
 
剣術や武士道の世界でも、
 
「死んで生きろ」
 
と言われます。
 
 
 
こう言われて
 
みずから死ぬのは愚か者ですが、
 
つまり
 
「もののふは死の恐怖を越えろ」
 
と言っているのです。
 
 
 
 
もののふの学ぶおしへは押しなべて
 
そのきはめには死の一つなり
 
 
 
 
動物たちも
 
死にかわり、生まれ変わり
 
することで修行をして、
 
霊的な存在(人、そして神)へと
 
魂を磨いているのであります。
 
 
 
 
ですから、
 
輪廻の回数が少なく
 
まだ魂の修行が足りていない人に
 
いくら霊性の話をしても伝わらないものです。
 
 
 
「否定」される経験が少ない人は
 
現実的にどれだけ力があろうとも
 
魂としては、まだ未熟でもある。
 
 
 
ゆえに
 
どれだけ五倫・五常や
 
正法(しょうぼう)を説いたとて
 
響きようもない。
 
 
 
それぞれタイミングがあります。
 
 
 
ボク自身、悪道を歩み
 
自分の「我欲」のまま生きて
 
大金を稼いでいたときに
 
「霊性」と言われてもフルシカトでしょう。
 
 
 
「え、冷やし中華はじめたの?」
 
とかナントカ言って(それは冷製やろ!)。
 
 
 
 
だからこそ、
 
無理に説得したり
 
相手を変えようとしても、
 
その人間がしかるべきタイミングにこない限り、
 
それは決して伝わらないものです。
 
 
 
ゆえに
 
啐啄同時(そったくどうじ)
 
が肝要なのです。
 
 
 
 
 
ボク自身、
 
これまでの人生の中で
 
否定されては絶望し、
 
立ち上がっては絶望し、
 
結果を出しては絶望し、
 
と繰り返していく中で、
 
やっと自分の無力さを悟った。
 
 
 
呼吸ができているのも神様のおかげ。
 
文章が書けるのも神様のおかげ。
 
ご飯を食べて元気に暮らせるのもみんなのおかげ。
 
 
 
こうしてインターネットを使えるのも
 
戦争兵器として開発された中で犠牲になった
 
数えきれないほどの人命や先人たちのおかげ。
 
 
 
〝いち将校(しょうこう)なりて万骨枯(ばんこつか)る〟
 
 
 
傲慢になれようはずもない。
 
 
なんと恥ずかしい人生だっただろうか。
 
 
でも、今からでも遅くはない。
 
 
 
いや、
 
過去も未来も
 
どこか遠くにあるのではなく、
 
まさに今、ここにある。
 
 
 
だから、
 
今日もみんなのしあわせを祈って
 
ただただ自分を神様のみむねに投げ打って
 
絶対安心の境地で神様とともに歩め!
 
 
 
それが
 
神様に仕える人の道なり。
 
 
 
 
 
西野ゆきひろ