【清心洞察記 .16】人類総エネルギーヴァンパイア時代

『清心洞察記』とは

これから、少しでも時間が出来た時に、

まるで自分のメモ書きのように、

心を清めていくための観察、問答、洞察、を

あるがまま、歯に衣着せず、自然に任せて書き記していこうと思う。

あくまで、自分のメモや日記のような立ち位置で、

それを他の人も読める、というようなものであるため、

敬は省略してあることを、予め記しておく。

 

私の日常は、

とにかくMTGが多い。

 

一日二回の食事よりも多い。

 

一つMTGが終わると、

すぐさま次のMTGヘ向かう。

 

必ず毎日、何某かのMTGをしている。

 

その中には、これから行う

セミナー、講座、お祭りなど

イベント系の運営について、また、

動画、ライブ配信の打ち合わせ、

講座やセミナー内容を作ることも含まれる。

 

もっとも、誰かが〝BAD〟

つまりメンタルの調子が悪いときにも

関係者が一同に会して、

問題の本質に触れるまで

徹底的に話し合う。

 

毎日、必ず。

一日とて、何もない日などない。

 

深夜24:00に集合

なんてのも平常運転。

 

もちろん、

「これだけやっている」

などと誇示するつもりはない。

 

このようなことは、一般的には

なかなか真似できないかもしれない。

 

ここで言いたいのは、

『ゆにわ』では、事務連絡以外は

すぐに、直接、集まってMTGをする。

 

時代という波に抗(あらが)うように

「顔を合わせて話す」

ことを何よりも重視している。

 

いや、正直に言うと、

そうでもしないと即「魔物」にやられるのだ。

 

問題、トラブルが発生する。

 

今日、自身のカラダの一部と化した

スマホやタブレット。

 

加えて、SNSにおいては、

この現実世界と同じか、

場合によっては、

それ以上の時間を過ごし、

朝起きて歯を磨くように日常へ溶け込んでいる。

 

Facebook、インスタ、YouTube、

LINE、TikTok、メッセンジャー、etc..

 

相手の目前に現れずとも

「情報伝達」することができる。

 

確かに、便利だ。

 

しかし、「便利だからいい」とは、

誰が言ったであろうか?

 

科学至上主義の文明は

あらゆる物事を簡潔、簡略化することを

是とする傾向を持つ。

 

仕事にしても

作業効率が変わらないのであれば

リモートで行えばいい。

 

これはアフターコロナの常識となっている。

 

ここにも「効率」が重視されているのが分かる。

 

しかし、われわれ人間は

「効率を上げる」ために

果たして仕事をしているのであろうか。

 

そうではない。

 

つまり、

「効率が上がればいい」

という問題ではないのだ。

 

やはり人は、

人に触れなければ

いよいよ冷たい生き物になっていく。

 

すると、

この世に生を受けて

果たすべき使命とでも言おうか、

成すべきことを見失い

昨今、良く耳にする

「なぜ、生きているのか分からない」

などと言い出すのである。

 

そんなもの、本来は直感的に、

感覚的に、生まれる前から知っているはずなのに。

 

「仕事」をしているからだ。

 

いや、本来の仕事とは、

文字通り「お仕え事」である。

 

神にお仕えする。

上にお仕えする。

人にお仕えする。

 

お仕えする心のない、

己がために行うあらゆる仕事は

真の意味で「仕事」とは言えない。

 

戦後、餌付けされた飼い犬のように

尻尾を振って欧米思想を

食してきた日本人には、

この「お仕えする」という

日本人たる美徳は、

無用の長物として、ついぞ排泄された。

 

不義

不理

不道

非情

非仁

 

現代人の成れの果てだ。

 

当然、現代人のみに

責任があるのではない。

 

が、歴史から学ぶことなく

飼い慣らされる奴隷根性に親しむ

怠慢さにヘドがでる。

 

SNSの台頭によって

我々は直接会わずとも

コミュニケーションを取れるようになった。

 

ことによって

直接会うという行為を「無駄」として

なんでもかんでも

SNSに頼るようになった。

 

当然だが、

SNSは文字でのやり取りが基本だ。

 

この文字でのやり取りは

非常に危険極まりないものである。

 

なぜなら、

先ほどの「仕事」という文字にしても

そこから食される意味や情報は

受け手に委ねるしかない。

 

こういった微妙なニュアンスは

文字情報だけでは伝わらない。

 

ここの「間」において、

常に微差が生じ、誤解を生む

ディスコミュニケーションへと発展する。

 

神は「間」に降りるが、

同時に「魔」も入りやすいのである。

 

既読がついてレスがない、

いわゆる「既読スルー」

というだけで疑心暗鬼になる。

 

人間は、会話をしている最中でさえ

言葉だけのコミュニケーションを

取っているのではない。

 

何を当たり前なことを・・

 

と思われるかもしれないが

このノンバーバルな領域を

現代人はあまりに軽く見過ぎている。

 

自分の発した言葉一つで

相手の表情も変われば体温も変わる。

 

当然、病的とも言える

過度な詮索は問題だ。

 

だが、表情や仕草、体温、

息遣い、心の動きなどから生まれる

その場の繊細微妙な〝空気〟を

感じながら話すことが肝要だ。

 

その〝空気〟に合わせて

話す内容や言葉遣いも変えられる。

 

しかし、SNSでは

相手の表情も状況も環境も見えない。

 

ZOOMでさえ、

それぞれの環境の違いを

正確に把握することはできない。

 

ZOOM中は、なおさら

相手の環境に介入することはできないし、

何をやっていようが自由だ。

 

当然、息遣い、脈拍、体温など感じない。

 

その点、SNSでは、

一方的になりやすく

自己満足的なコミュニケーションが蔓延(はびこ)る。

 

つまり、全員

相互オナニープレイってわけだ。

 

そういう意味でも、

直接会って、相手を感じて、

〝空気〟を感じて、

会話することがどれだけ大事なことか。

 

そうして、はじめて

正しいエネルギー循環が起こる。

 

アングロサクソン文明のセックスは

動物的であり、そして、

エネルギーの奪い合いだ。

 

今の「恋愛」の価値観も

気の引き合いという点において

エネルギーの奪い合いだ。

 

SNSなど、

いかに相手の時間を奪うかを

主においているのであるから

エネルギーの奪い合いだ。

 

「人類総エネルギーヴァンパイア」

と言っても、誇張にはなるまい。

 

みながお互いに、

いかに気を引いて

エネルギーを奪うか。

 

この奪い合い合戦に

躍起になっている現代人。

 

なぜ、そのようになるのか?

 

それは、

〝エネルギー〟

というモノを

あまりにも知らなすぎるからだ。

 

知っていても

観念上のことであって、

実学として

実生活に落とし込んでいる人は非常に少ない。

 

だから、無意識に

エネルギーを奪う(気を引く)行動を取ってしまう。

 

いかにも

「わたし、元気がないよ」

という振る舞いをして

「大丈夫?」

「なんかあった?」

と気にかけてもらおうとしたり。

 

それでも気にかけてもらえないと

最終手段として「病気」になって

強制的に看病してもらおうとする。

(もちろん、病人すべてがそうとは言わない。)

 

それらはすべて、

〝エネルギーの循環法則〟

を知らないからだ。

 

これは本来、

言語での説明などなくても

非言語で、親から子供へと教わって然るべきである。

 

しかし、その親でさえ知らないばかりに

「子供のために」とか言いながら

自分の好きな色に染めようと子供を支配し、

エネルギーを奪っているケースがあまりにも多い。

 

だからこそ、

まずファーストステップとして、

直接顔を合わせて、

お互いのことを思いながら

「素晴らしい時間になりますように」

という祈りを込めて

対話をすることである。

 

「わたしのことを好きになってもらおう」

ではなく、

「目の前の人が元気になってもらえますように」

そういう気持ちで接することで、

鏡写しのように相手も言動が変わっていく。

 

もちろん、時間はかかるかもしれない。

 

しかし、自分が目の前の人にかけた

祈りのエネルギーは、

直接、その人から返ってこなくても

必ずどこからか返ってくる。

 

奪えば奪われ、

与えれば与えられる。

 

それが〝エネルギーの循環法則〟である。

 

みな、結果を焦りすぎる。

 

何かを施したとき、

すぐに見返りがないと「無駄だった」という。

 

しかし、返ってくるものというのは、

巡り巡るほど、実り多くなって返ってくる。

 

もっとも、次の段階では、

老子はこのように表現している。

 

〝為(な)して恃(たの)まず〟

 

物事をなしても、

決して、見返りを求めない。

 

そして、

〝功(こう)成なりて居(お)らず〟

功績があっても、決して安住しない。

 

そういう境地でいるからこそ、

〝是(これ)を以(も)って去(さ)らず〟

功績が我が身から去ることはないのだ。

 

そんな境地を心がける朋(とも)は

一体、この現代日本にどれだけいるであろうか。

 

 

物言はぬ四方(よも)の獣(けだもの)すらだにも

哀れなるかなや親の子を思

 ー鎌倉幕府三代将軍 源実朝『金塊集』より

 

 

ゆきひろ

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