こんにちは、ヘンな西野です。
突然ですが、
あなたは、道端に落ちているゴミを見たら、
ゴミ箱に捨てますか?
それとも、
「それは仕方のないことだ」
と、自分に言い聞かせて
“見て見ぬフリ”をしますか?
正直に言います。
私はどっちもします。
自分のエネルギーが充電できているときは、
拾ったり少し端っこに避けたりします。
が、やっぱり充電切れのときには
見て見ぬフリをしてしまいます。
(ですし、全て反応していたら一生が終わりそうです。)
こないだ、
アドバンスクラブのディナー帰りに
確か東京駅かの駅で
クラッチバックを拾いました。
黒い生地で、片面にルブタン“みたいな”
金のボツボツが付いてて、
少し使い込んでいる印象でした。
(まさにこういうやつです)
見るからに若い人のバッグで、
一緒にいた松浦さんや杉村さんと
「これは届けてあげよう」
と言い、3人で少し離れた交番まで
テクテク持って行きました。
しかし、周りの人は“見て見ぬフリ”を
していました。
なるほど、東京で生き抜くには
そういう精神が必要なのだな、と分かりました。
とはいえ、偉そうに言っている私も
“見て見ぬフリ”をしてしまう瞬間はあります。
そして、自分にこう言うのです。
「仕方のないことだ」
てね。
急いでいるから仕方がない、
今はこれをやっているから仕方がない、
何かにつけて“仕方がない”と
言い訳を考えてしまいます。
人は自分の都合のいいようにしか、
言い訳をしません。
これは好き、これは嫌い。
全部、自分の都合のいいように
物事を考えてしまう生き物です。
これを精神分析的に言うと、
“アイデンティティを守るための防衛本能”
なんて言ったりします。
つまり、人は自分を守ろうと生きるのです。
(基本的には、ですが。)
だから、何か買い物をしたときにも、
「これは正しい選択だった」
と思いたいために、
色々と言い訳を探していきます。
洋服で言えば、
「着心地も良いし、春っぽいし、
これでその値段はお買い得だなぁ」
みたいな感じです。
でもそれって後からの言い訳で、
単純に承認欲求や虚栄心がそれを求めて、
そこに色々と自分にとって必要な理由を探し始めます。
“これ欲しい”って思ってから、
論理的に良いところを探し始めます。
つまり、「論理はあと」なんですよね。
これが男女の恋愛関係だったら
もっと分かりやすいです。
最初は、出会ったばかりなので
お互いが感情的に「好き」って思うので、
相手の色んなところが良く見えてきます。
最初は、
「えくぼが可愛いね」
「ヒゲがカッコイイね」
な〜んて、相手の色んな
良いところを探し始めます。
つまり、その人なら
なんでも「良いもの」に
見えてしまっている状態ですね。
流れる恋のプールで、
溺れてしまっている状態です。
ですが、少し時が経って
一緒の時間が増えてくると
段々相手の悪いところが見えてきます。
そして次第に、色んなところが
悪く見えてきてしまうのです。
最初は、
「カヨワいんだから荷物を持ってあげるよ」
とか言っておきながら、
マンネリ化してくると
「それくらい持てるっしょ」
みたいになります。
そして、最初は可愛く見えていた部分も、
だんだんイライラポイントに変わっていきます。
そうして・・・
みたいな感じです。
私たちは、自分の良いようにしか、
物事を捉えないわけです。
最初は良いと思えたことも、
感情的に求めなくなってしまうと
悪い部分に見えてくるのです。
最初は「赤が好き」とか言って
少し派手な赤い服を着ていたけど、
次第に「これは時代的に厳しいな」とか
「もうそういう年齢じゃなくなったし」
などと言い訳を付けて着なくなります。
本当は、人から痛い目で見られたくない、
よく見られたいという承認欲求からくる理由です。
私たちは、自分の見たいようにしか
物事を見ません。
何かがあり、それに対して
自分の都合のいいように意味付けしていきます。
「これは正しい選択だったんだ」
と思いたい生き物です。
もちろん、これを一概に悪だとは言えません。
自分を守るための手段ですから、
必要な能力です。
ただ、事実として、
物事を自分の見たいようにしか見ない、
という脳の働きをしています。
そう、私たちは物事に“意味付け”
をして生きています。
何かがあって、そこに意味を付ける。
ある意味、都合がいいのですね。
だから、聞きなれない言葉や
自分の信念と食い違うことがあると
「これは怪しい」「頭がおかしい」
となります。
例えば、最近は「カルマ」という概念、
コンセプトがすごく奥が深くて
勉強になるなぁと思っているのですが、
前提知識を共有していない人にとっては
「うわ、やばいやばい、頭おかしいよ」
となるはずです。
そして、
信念とズレることは受け付けないよう
生きていきます。
同じ「カルマ」という言葉ひとつ取っても、
それぞれの人によって意味付けが変わってきます。
仏教的に言えば、“この世は空(くう)である”
ので、そこに意味なんてものはありません。
それはただそこに存在しているだけであり、
なぜあるとか、それが自分にとって
どんな影響があるとか、そんな意味なんてありません。
あなたと好きな人が出会うことに
本来なら意味なんてものはありません。
ただ、人と人が会った。
それだけです。
意味は、人があとから作った妄想の産物です。
もちろん、意味を付けることが悪である、
とは言っていません。思いません。
ただ、その意味付けを少し変えてみる、
ということが非常に大切になってくると思います。
例えば、過去に何か嫌なことがあった。
でもそれって言うのは、
その起こったことに意味なんてありません。
ただ起こっただけです。
それを単純に嫌なことだと捉えるのか、
それとも自分が成長するために必要だったことだ、
という意味付けに変えるのか。
同じ出来事や物事でも、
捉え方、捉える視点というのを
変えていくのも大切なのではないかな、と思います。
私も、色んな失敗をして、
色んな人に迷惑をかけてきました。
もちろん、これを正当化するつもりは
ありません。
ただ、大切なのは
「じゃあ、これからどうしていくか」
なのだと思います。
今まで、自分のことばっかり考えて
行動してきてしまったなら、
これからは少し変えていくことができます。
ちなみに、私の両腕には刺青が入っていて、
やっぱり色んな人が嫌な目をします。
交番の前を通ると、おまわりさんに
必要以上に視姦されます。
もちろん、「刺青」というもの自体には
なにか意味があるわけではありません。
その人たちがそういう意味付けを
しているということですからね。
私も、「嫌な目をされた」というのは
そこに意味なんてないと思っています。
ただ、じゃあそこにどんな意味づけをするか、
が大事だと思っています。
なので、例えば半袖で刺青を出しているときには、
より他の人に丁寧に接するようにして、
刺青が入っている = 悪
という世間一般の認識を
少しずつ変えていけたらいいなと思っています。
とはいえ、そのための運動を起こす、
みたいなことはしませんが。
あくまで、自分が今できることからです。
刺青やタトゥーがある人にとって、
それは良くも悪くもあります。
悪いと思えば悪いし、良いと思えば良い。
私は刺青が入ってて良かったなと思います。
なぜなら、普通に丁寧に節するだけで
ギャップで、より良い人で礼儀正しく見えるという。笑
ある意味で言えば得だし、
ある意味で言えば損だし、
それはどう捉えるかの違いです。
もし今後、あなたが何か自分にとって
嫌なことがあったり辛いことがあっても、
捉え方によって
嫌なことではなく大切なこと
辛いことではなく必要なこと
になってくる、ということです。
そう考えたら、なんか色々なことに
挑戦していく勇気が湧きませんか。
だって、たとえ失敗しても、
それは良いように捉えれば
良いものになるわけだし。
そんな感じで最初に出した「カルマ」ですが
非常に奥が深くて面白いコンセプト(考え方)なので
また改めて時間を取ってお話ししたいと思います。
「うわ、カルマとか言葉が怪しい」
と思ってしまったとしても、
“なるほど、そういう考え方もあるのか”
くらいな感じで捉えてもらえたらと思います。
これ、私にとっては非常に大切な考え方だな、
と思っていますのでまた改めて共有します。
信じるか信じないかは、あなた次第です。
・・・笑
今日も良い日になるか悪い日になるか、
それは自分の捉え方次第ですね。
それでは、良い1日を。