【清心洞察記 .5】残り3分の気の緩み

『清心洞察記』とは

これから、少しでも時間が出来た時に、

まるで自分のメモ書きのように、

心を清めていくための観察、問答、洞察、を

あるがまま、歯に衣着せず、自然に任せて書き記していこうと思う。

 

あくまで、自分のメモや日記のような立ち位置で、

それを他の人も読める、というようなものであるため、

敬は省略してあることを、予め記しておく。

 

 

高野山の参拝当日。

 

もともとは

ボクも運営メンバーとして

参加する予定だったが・・

 

開催中止(別日開催)となった

もう1グループの参加者さんの中で

万が一、お知らせが伝わっておらず

集合場所に来てしまったら・・

 

サブい

どころの話ではない。

 

一抹の不安が消えなかったため、

運営陣で話し合った結果、

前回の記事の通り

ボクが新大阪駅で待つことになった。

 

ということで

早朝から電車で

葛葉から新大阪駅まで行くことに。

 

電車に乗るのは

かれこれ1〜2年ぶりくらいだ。

 

東京でのセミナーや

各地での参拝セミナー

綾部ゆにわでの農業など 

毎月ベースで出かける機会はあるが

すべて車移動。

 

それ以外では

樟葉からほとんど出ることはない。

 

樟葉内にゆにわ関係の

事務所やカフェ、食事処などあるため

黄色い電動自転車での移動がもっぱらである。

 

さて、 

葛葉駅に到着し

新大阪駅までの切符を

買おうとするが・・

 

買い方が分からない、、

 

券売機で何度か失敗していると

突如、警報のようなものが鳴り

駅員さんが駆けつけてくれた。

 

新大阪駅までの

切符の買い方を教わって

やっと買える始末。

 

そういえば

すでに海外のほとんどが

マスク着用はしていないが

駅の中では

「新型コロナ感染症の

 感染拡大防止のため

 駅構内や電車内では

 マスクの着用をお願いします」

というアナウンスが定期的に流れていた。 

 

感染拡大を防止する

という意味では

マスクの着用は意味をなさないのに。

 

それでも

みな律儀にマスクを着用している。

 

ボクも不愉快な思いをさせないために

マスクを着用することにした。 

 

淀屋橋で御堂筋線へ乗り換え

なんとか新大阪駅に到着。

 

余談の極みだが

電車内は少し面白かった。

 

ボクも含め

みな無意識的にも意識的にも

席の取り合い戦争が起こっていた。

 

ボクは窓際の席に行って

本を読みながら

時たま景色を見たかった。

 

が、あいにく

窓際の席に女性が座っていたため

ボクは少し離れたところに座った。

 

電車内で本を読み慣れておらず

少し酔ってしまうたびに

窓の外に目をやっては

山の稜線にかかる雲を眺める。

 

師匠〝北極老人〟からは

〝雲は観世音菩薩だよ〟

と教わっている。

 

そうして

景色を眺めていると

窓際に座っていた女性が

自分のことを

ジロジロ見られている

と思ったのか

ボクの顔をチラッと見ては

怪訝そうな顔をした。

 

なにも、そんな表情しなくても

少しニコッと微笑んでくれたらイイのに。

 

こういうところに

現代社会の「病い」を感じざるを得ない。

 

新大阪駅は

三連休の最終日ではあったが

夕方には台風が直撃する

という予報だったため人が少なかった。

 

しばらくの間

開催中止にならなければ

集合場所だったところで

誰も来ないか立っていた。

 

しかし

気温は非常に蒸し暑く

立っているだけで

背中に汗がツーッと流れ落ちる。

 

そんな中

バスの発着場所に立っていると

結婚式に参加する予定であろう

若者たちが代わるがわる来ては

迎えのバスに乗り込んでいった。

 

ボクは性格が捻くれているのだろう。

 

彼・彼女らはきっと

新郎新婦のお祝いはそこそこに

自分たちの出会いの場として

楽しみに参加しているのだろうと思った。

 

みな派手なお化粧や服装で

バッチリ決め込んでいた。

 

下手したら

新婦の花が目立たなくなるぞ。

 

なんて彼女らには

余計なお世話なのかもしれない。

 

・・・

 

1時間ほど待ったが

結局、集合場所には

誰も来られなかった。

 

お知らせを見逃した人はいなかった

ということだろう。

 

一番ベストな形だった。

 

後から車で来た

調香師の山田さんと合流し

樟葉へ帰ってきた。

 

そして

毎週月曜日のお昼といえば

ボクは社員食堂ゆにわの洗い場に

下座業として入らせていただいている日である。

 

お昼ご飯のクッパをいただいた後

そのまま洗い場に入らせてもらった。

 

今日はとくに食器や鍋の洗い物が多く

ひとりで回すにはギリギリだったが

なんとか踏ん張っていた。

 

しかし

次に洗い場へ入る予定のスタッフが

時間になっても誰も来ない。

 

いつもより延長しているものの

さすがに

他にやるべき仕事もあるため

このまま入り続けることはできない。

 

そこで

自分の中で 

「残り3分だけやって上がろう」

と決めた瞬間・・

 

バリーンッ!!

 

手からガラスコップを滑らせ

豪快に割ってしまった。

 

一瞬だった。

 

一瞬の気の緩み。

 

「あと3分だけやって上がろう」

と心の中で考えた瞬間

祈りではなくなっていた。

 

それがすぐに現象として現れたのだ。

 

師匠〝北極老人〟からは

洗い物をしている最中でも

自分の発する音に気をつけることを教わっている。

 

とくに忙しくなってきた時ほど

食器の音が出やすいからこそ

丁寧に、かつ素早く

このアンビバレンスを両立させること。

 

そのためには

他の雑念を挟むことなく

無心に目の前の食器に

意識を集中させる必要がある。

 

しかし

ボクはほんの一瞬でも

雑念を抱いてしまった。 

 

その結果

ガラスコップを割ってしまったのだ。

 

これはボクにとって

まさに自分の人生の縮図そのものだった。

 

というのも

自分はいつも最後の最後に

集中力が切れてしまったり

「最後まで見切る」

ことができずに

痛い思いをたくさんしてきた。

 

なにより

小学校の時には

幼稚園からずっと続けていた 

サッカーのクラブチームを

小5のときに残り1年で辞めてしまった。

 

あれだけ好きだったサッカーを。

 

そして

高校では謹慎や停学を繰り返した結果

1年通って辞めてしまった。

 

その後、職人の仕事で

お世話になったものの

逮捕されたことを機に

不義理にも辞めてしまった。 

 

他にも

挙げればキリがないが

自分はいつも最後までやり通せず

投げ出す、逃げ出す癖があった。

 

それが今日の洗い場でも

出てしまったのだ。

 

今日の現象を

「ま、仕方のないことか」

と甘く見過ごすのではなく

しっかりと向き合うこと。

 

自分の負けパターンを超える。

 

これこそが

人類の雛形になる。

 

北極流では

些細な現象でさえも

敢えて大ごとに捉える。

 

「ま、これくらい良いでしょう」

「今回は見逃そう」

と問題に向き合うことなく

先延ばしにしてきた結果

自分で自分の首を絞め続ける

今の人類がある。

 

自分ひとりの毎日が

人類の未来と繋がっている。

 

社会学ではこれを「セカイ系」などと呼び

少しバカにするような発言をする人も多い。

 

しかし

これは決して幻想でも空想でもなく

確固たる真実である。

 

なぜなら

我々ひとりひとりが

人類を構成しているのだから。

 

「自分ひとりの人生は人類の雛形である」

というくらいの気概がなくては

神様に仕える人間として恥ずべきである。

 

とはいえ

何も失敗しない

完璧な人間など存在しない。

 

どんな聖人君子でも

弱点の1つや2つはある。

 

それでも・・ 

 

〝苟日新、日日新、又日新〟

まことに日に新たに、日々新たに、また日に新たなり

 

神に仕える人間の心構えである。

 

 

ゆきひろ