その人の境地(心のステージ)があらわれる場所

 
あやまちを改めざるが
 
あやまちと心得てこそ人の道なり
 
 
 
 
 
 
先日、15歳からの友人と
 
数年ぶりに食事をともにしました。
 
 
 
彼とは、埼玉で一緒に
 
ギャングをしていたころからの仲です。
 
 
 
一緒に逮捕されたりもしました。
 
 
 
ともに修羅場を潜ってきました。
 
 
 
ボクは17歳になり、
 
当時、クラブで知り合った彼女の家に転がり込んで
 
東京の裏社会に染まっていってからも、
 
地元の友人の中で唯一、
 
彼とは親交がありました。
 
 
 
そして、ボクが裏社会から足を洗い、
 
起業をこころざすも失敗し
 
借金地獄で苦しんでいる最中も、
 
 
 
彼は住める家を探してくれたりと
 
なにかと助けてくれていました。
 
 
 
そんな彼と久しぶりに食事をして
 
積もる話をたくさんしました。
 
 
 
そして、
 
かつてボクが一緒にいた仲間たちは
 
今どうしているかと尋ねてみると、、
 
 
 
最近、逮捕されて
 
40を超えるまで出てこれないものもいれば、、
 
 
 
借金返済に追われているものもいれば、、
 
 
 
いまだ裏社会から抜け出せないものもいる、、
 
 
 
という有様だった…。
 
 
 
それを聞いたとき、
 
ボクは導いてくださっている
 
守護霊さんや神様に
 
救っていただけたことを
 
改めて心から感謝の念に包まれたのでした。
 
 
 
なんせ、ひとつでも
 
ボタンのかけ違いがあれば・・
 
 
 
ボクは今ここにはおらず
 
裏社会から抜け出せないまま
 
自分が刑務所にブチ込まれていたかもしれない。
 
 
 
あるいは、
 
そういった組織とトラブルを起こして
 
埋められていたかもしれない。
 
 
 
そんな「地獄界」から
 
今の「天国界」へと救っていただけた。
 
 
 
それだけで、ボクは感謝してもしきれない。
 
 
 
守護霊さん、守護神さん、
 
先祖代々のご霊位様方、神々様、
 
心より御礼申し上げます。
 
 
 
そして、救っていただいた
 
この命、この身この玉、人生を捧げて
 
世のため人のために奉仕していくことを誓います。
 
 
 
 
 
という具合に、
 
ボクの人生は本当に遠回りでした。
 
 
 
東京で起業してから早8年が経ちました。
 
 
 
借金まみれだったころから
 
ひたすらインターネットで
 
情報発信をし続けてきました。
 
 
 
一番はじめはFacebookでの投稿。
 
 
 
それから、アメブロやら
 
ワードプレスやら
 
メルマガやら。
 
 
 
今ではYouTubeになりましたが。
 
 
 
そして、5年以上前の発信を見ると、
 
それはもう…
 
 
 
今より遥かに未熟で
 
境地も低く、かつ、傲慢で、欲深く、
 
気持ち悪いほど下ネタのオンパレード。
 
 
 
あんなんで、
 
お客様もよく信用してくれたものだ…
 
 
(もちろん、その時はその時で
 
 誠意を持って発信していました。)
 
 
 
先日、ふと読み返したら
 
それはもう恥ずかしくて仕方がなかった。
 
 
 
(すでに初期の記事の大半は削除済み。)
 
 
 
 
そして、明らかに
 
今の自分とは考え方も価値観も
 
変わっていました。
 
 
 
とはいえ、
 
それが悪いとは1ミリも思いません。
 
 
 
むしろ、そういった変遷を経て
 
今の自分の考えや思想、哲学に
 
たどり着くことができたのです。
 
 
 
ですから、ボクの紆余曲折も
 
すべてが必要な踪跡(そうせき)
 
だったということです。
 
 
 
無駄なものなど
 
何ひとつなかった。
 
 
 
人はすぐ、
 
「今のこれって、なんの意味があるのだろうか…」
 
「これってやっても無駄なんじゃないか…」
 
「こんなことしてもメリットないよな…」
 
などと考え出します。
 
 
 
そうして、何事も続かない。
 
 
 
しかし、人生とは「無駄で出来ている」
 
と言っても過言ではありません。
 
 
 
いえ、無駄があるからこそ
 
世界は成り立っている。
 
 
 
そもそも、
 
なにを「無駄」だと思うかに
 
その人の境地があらわれます。
 
 
 
かつて禅宗の高僧に
 
馬祖道一(ばそどういつ)
 
という偉いお坊さんがいました。
 
 
 
ある日、弟子が馬祖に
 
「ほとけの教えの最も大事なことは何でしょうか?」
 
と質問をしました。
 
 
 
すると、馬祖はその弟子に、
 
「メシは食ったか?」
 
と聞きます。
 
 
 
弟子が
 
「はい、いただきました」
 
と答えると、
 
馬祖は続けて、
 
「食器は片付けたか?」
 
と質問をします。
 
 
 
弟子も
 
「はい、片付けました」
 
と答えます。
 
 
 
すると馬祖は、
 
「それでよろしい」
 
と言って問答を終えたことがありました。
 
 
 
この問答で馬祖が言いたかったこと。
 
 
 
それは、
 
ほとけの一番大事な教えというのは、
 
何か特別なものなのではなく、
 
日常のあらゆるものがそうなのだ、
 
ということを弟子に教えたのですね。
 
 
 
人は、解脱や悟り、浄土、天国、
 
しあわせになる方法というものは
 
どこか遠くにあるのではないか、
 
手元にないものこそが大切なのではないか、と
 
どこか遠くを見ては憂(うれ)いています。
 
 
 
しかし、究極的に言えば
 
この世に無駄なものは何ひとつなく、
 
日常のあらゆる行いが修行であり
 
自分の魂を磨くものなのであります。
 
 
 
「こんなことやってもメリットが…」
 
なんて、今の自分の低い境地で考えるから、
 
本当に大切なものが見えなくなる。
 
 
 
それが、今後の人生で
 
どう繋がるかなんて、誰も分からないものです。
 
 
 
 
実際、ボクはもともと
 
借金で苦しみながらでも
 
毎日発信を続けていたわけですが、
 
 
 
その発信で直接アクセスが集まって
 
収益が爆発したというよりも、
 
(少しは収益になりましたが)
 
その記事を読んだ経営者の方に
 
 
「文章、上手だな」
 
 
ということで、
 
大きな仕事を依頼してもらったことが
 
起業家としてのボクの大きな
 
ターニングポイントになったのでした。
 
 
 
その行い、経験が、
 
どこでどう繋がるかなど
 
自分では絶対に分かるはずがない。
 
 
 
それなのに、
 
自分の狭隘(きょうあい)な心で
 
無駄だのメリットだのと考えるのは
 
なんと浅薄(せんぱく)なことでしょうか。
 
 
 
今やっていることが、
 
直接的に何かの結果に繋がらずとも
 
また、人に認められずとも
 
必ず神様は見ているのです。
 
 
 
天網恢々(てんもうかいかい)疏(そ)にして失わず
 
 
 
と、老子が言うように、
 
天の網は粗(あら)く見えても
 
ひとつも見逃すことはないのです。
 
 
 
 
 
 
なにごとも
 
ひとつひとつに心込め
 
祈りをのせて神様に
 
捧げるようにおこなえば
 
これことごとく神の業(わざ)なり
 
 
 
 
 
西野ゆきひろ
 
 
 
 
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