【清心洞察記 .15】観音の微笑

『清心洞察記』とは

これから、少しでも時間が出来た時に、

まるで自分のメモ書きのように、

心を清めていくための観察、問答、洞察、を

あるがまま、歯に衣着せず、自然に任せて書き記していこうと思う。

あくまで、自分のメモや日記のような立ち位置で、

それを他の人も読める、というようなものであるため、

敬は省略してあることを、予め記しておく。

 

これは夢なのか‥

 

朝、目を覚ますと

いや、

正確には

深いねむりから

意識が戻ろうと

うつろいでいると、、

 

なぜだろう‥

忘れていた記憶が

ブワァーッと

新幹線から見る景色のように

目の前に現れては

消えていった。

 

好きな子が家に

泊まりにきたときのこと。

 

「あぁ、あのとき

 ちゃんと伝えておけば良かった・・」

 

という後悔の念とともに。

 

大量のお酒を飲み

酔ったまま運転をした結果

交通事故を起こして

はやくに亡くなった友人たちのこと。

 

当時、かれらは

20代後半。

 

16、17歳のグレていたボクを

よく可愛がってくれて

たくさん

夜の遊びを教えてくれた。

(法律的には、許されないだろうが

 当時のボクには嬉しかった。)

 

そして

今のボクは

かれらが亡くなったときの

年齢をゆうに超えている。

 

人は、いつ死ぬか分からない。

 

もしかしたら

その車には

ボクが乗っていても

おかしくはなかった。

 

なぜなら

よく、その車で

飲みに連れていってくれたから。

 

しかし

たまたま

その日はいなかった。

 

そして

亡くなった次の日

お葬式に行った。

 

・・

そんな記憶など

とうの昔に忘れていた。

 

思い出すこともなかった。

 

なぜだろう‥

 

なぜ、今日

そういった

深い記憶の底に

忘れ去られていたものが

浮かんできたのだろう。

 

死が、近づいているのか‥?

 

それは半分、冗談だが

半分、本気でもある。

 

人は誰しも

毎日、死というものに

一歩ずつ、近づいている。

 

普段は

その恐怖に

苦しまないよう

事実に蓋をして

生きている。

 

それは自分とて

例外ではない。

 

しかし、いつ死んでもおかしくはないのだ。

 

着実に、一歩ずつ、

死に向かっている。

 

「西野さん、病んでるんですか?」

そんな声が聞こえてきそうだ。

 

しかし

こちらは至って正常。

 

むしろ

いつまでも

このまま平穏な日々が続く

と思っているほうが

じつは狂っているのかもしれない。

 

師・北極老人曰く

かつて聖徳太子は

いつも死と隣り合わせで

生きていたという。

 

いつ殺されてもおかしくない。

 

実際、聖徳太子のみならず

一族は皆殺しにされている。

 

明日の命も

たしかではない。

 

そういった極地に

立たされたとき

人はどうなるだろうか。

 

ふと、

そんなことを考える。

 

人間は

いや

生きるものはみな

そういう状況でこそ

本来の潜在能力を

最大限

発揮するのであろう。

 

そして、もし

明日がこないとしたら‥

「悔いのない行動をしよう」

そう思うはずだ。

 

それを考えると

自分の中でうごめいている

あまたの煩悩など

いかほどのものだろうか。

 

2023年

ゆにわ塾で開催する

講座のテーマは

〝みたましずめ〟

 

〝みたましずめ〟とは

読んで字の如く

荒ぶる魂を鎮める(=鎮魂ちんこん)

という意味だ。

 

では、何を鎮魂するのか。

 

個人でいえば

冒頭で書いたように

ボクたち一人ひとりの中には

深い記憶の海の底に

沈んでいるものがある。

 

普段、それらは

水面(みなも)に

浮かんでくることはない。

 

しかし

深海では確実に

生きもののように

存在している。

 

そこには

良いものばかりではなく

悪しきものも沈んでいる。

 

あの時、言われて傷ついたこと。

あの時、できなくて後悔したこと。

あの時、やってしまった罪深きこと。

 

じつは

そういったものが

自分の考えかた・行動

つまり

人生に影響を与えていることに

気づいている人は少ない。

 

チャンスが目の前に訪れたとき

一歩が踏み出せないのも‥

 

誰かとの距離が

近づこうとしたとき

怖くて逃げ出してしまうのも‥

 

本当に信じられるものに

出会えたとき

疑ってしまうのも‥

 

自分の意識の

奥深くに沈んでいる

荒ぶるものを

鎮魂できていないからだ。

 

そして

これは個人だけの話ではない。

 

モノや土地にも

記憶はねむっている。

 

当然

ボクたちの先祖や

先人たちの記憶もある。

 

それらの中にも

なす術(すべ)を知らず

苦しみ

苦しめ

荒ぶっているものがある。

 

だからこそ

それらの魂を鎮(しず)め

〝光〟の記憶(=神だった記憶)を

思い出してもらうのだ。

 

本来

すべての人・モノは

神の一部であり

神そのものだった。

 

いつしか

それを忘れ

暗い闇の中へと

迷い込んでいく。

 

しかし

闇を経験するからこそ

良いのだとも言える。

 

なぜなら

〝光〟は

自分の輝きを

見つめることができない。

 

闇の中にいるからこそ

〝光〟を見出すことができる。

 

それが

観音の救い。

 

闇の中で光を知り

その場所へ導いていく。

 

それが

観音の道。

 

2023年

ゆにわ塾の講座

〝みたましずめ〟

では

ボクたち一人ひとりが

自分の中にねむっている

荒ぶる怨念を鎮魂し

観音の道を歩む

道友になることを

目標にしている。

 

少なくとも

ボクは

自分がどんなに苦しい時でも

観音様のような

微笑を湛(たた)え

周りの仲間を救える人になりたい。

 

 

ぬばたまの暗の中にもかすかなる
光あればこそ暗ぞありける

 

ゆきひろ