サワディーカッ!
西野です。
今回は、タイのプーケットに来ています。
タイ・プーケットでの言葉の壁
初めてタイ国に来たのですが、言葉の壁がかなり大きいですね。現地の人も片言の英語なので、片言同士の会話は伝えるのが難しい…
そうなると、ボディーランゲージに頼ることになるのですが、それもまた難しいです。ボディーラインゲージで表す方法もまた私たち日本人と違うことが多いです。
(ただ、“お金の支払い”というジェスチャーは親指と人差し指を胸の前あたりでスリスリ擦る、というのはどこの国でも共通みたいです。)
結果的に、ホテルのビーチレストランで一緒にランチしたバスケの中川さんが、「シュリンプ!」と伝えていても通じませんでした。
海外観光で翻訳アプリ使用は現状厳しい
確かにスマホアプリで翻訳することはできます。でも、かなり面倒臭いんですよね。
言いたいことがあったら、普段ならパパッと伝えられます。が、スマホでの翻訳アプリを通すと、次の連続したステップが追加されます。
1:言いたいことが頭に出現する
2:スマホを開く
3:翻訳アプリに言いたい文章を打ち込む(話しかける)
4:wait..
5:言葉が表れる
6:読んでもらう
7:完璧な翻訳ではないため相手は考える
8:wait..
9:ほんの少しだけ伝わる
or 全く通じない(場合がほとんど)
…
というステップが、相手に話しかけるときに追加されてしまうんですよ…。
これって、かなり面倒です。なので、滅多なことがない限り、使うことがなくなります。結果、伝わってるか伝わってないか分からないけど別にいいや、となります。さっきのレストランでのシュリンプも、伝わらないならもういいや、となりました。
同系の民族はお互いを意識する
そうなってくると、だんだんと周りの人の目なんてどうでも良くなってくるんですよね。どうしても日本では、同じ民族として周りを意識してしまいます。
実際、プーケットの観光地やホテルでは、日本人がほぼいません。観光客としては、白人とかヨーロッパ系の人たちが多いです(アラブ系の人も良く見ますね)。そもそも「アジア人」ですら珍しいです。
が、繁華街(パトンエリア)でご飯を食べているときに目の前を日本人らしきカップルが通り過ぎた時に、同じ民族としてお互いが、「あれ?日本人じゃないかな?」という感じで意識していました。
でも、知らない国の人たちが目の前を通り過ぎようと気にしません。「あれ、なに人じゃないかな?」とかは考えません。
あ、アジア系の民族は、お互い少し意識するかもしれません。やはり、民族同士の中で、同系の民族は何かあるのかもしれません。
とにかく、そういう感じで日本人同士となるとどうしてもお互いがお互いを意識します。変な意味というか、恋愛の意識ではなくてもやはり周りの目を意識します。
近所付き合いもそうです。例えば、私は日本のホテルや旅館に宿泊するときは、かなり周りの目を意識します。近くの部屋の人とはなるべく会わないようにしたり。
でも、周りの部屋の人たちがどこぞの国か分からない人たちだとそういうの何にも気にしなくなります。日本では見せられない姿も海外では何とも思いません。
とはいえ、もし醜態を晒していたら「日本人は酷いな」とか「アジア系はみっともない」という、大きな括りで判断されてしまうこともあります。なので、そこの最低限のルールは意識する部分ではありますが…。
言葉の通じない環境が脳と心の覚醒を促す
でも、本当に思うのが、言葉の通じない国での滞在は、色んな面で考えてもプラスでしかないですね。不便さを感じる部分はありますが、成長するかしないかで考えたら間違いなく成長します。
私たちの脳というのは、条件によって使われ方が違います。「条件」というのは、例えばその場にいる環境などのことです。
お風呂に入っている時と、日中に職場でバリバリ仕事している時では、脳の使われ方が大きく異なります。
自分にとって何が書いてあるか分からない、周りの人も何をしゃべっているのか分からない。
こういうタイとかだと、日本にいる時のようなノイズがほとんど入ってきません。全くではないですけど、情報が一気に遮断される感じです。
そうなると、ノイズにかき消されていた自分の中の心の声が聞こえてくるようになります。
広告の『乱射攻撃』を受ける日本人
私たちは普段からどれだけ、広告やマーケティングの『乱射攻撃』に晒されているのでしょうか。そして、私たちはその広告が脳にインプットされ、影響されていきます。
そう、色んな広告やメッセージがあると、それに忙しくなっていきます。あれやこれや、と広告に反応し、本当に自分がやりたい事ではなくても、あたかも「これは自分がやりたい・好き」と認識し始めます。
結局、自分が普段から使う歯磨きも、色んなCMや広告や誰かの話の影響で今その歯磨き粉を選んでいます。
もちろん、それが不幸か、というとそうでもありません。「自分で選ぶ権利がある」ということも言えます。が、正直、歯磨き粉なんて実際には要らなかったりします。
ある宇宙飛行士がテレビで、
「宇宙船の中では歯磨き粉を捨てられないので、全部を飲み込む必要があります。身体的には大丈夫です。ですが、本来は歯磨き粉を使わなくて良いので私たちは使いません。」
と言っていました(もちろん、使うとメリットもあるし、むしろ私は使います)。
他人に人生を操られる人々…
つまり、「自分が好きでこう思う」という価値観も、実は第三者の影響だった、なんてことは当たり前にあります。それがエスカレートすると、「誰かの広告へ反応することに忙しくなる」のです。
誤解を恐れずに言えば、『踊らされる』と表現したほうが正しいでしょうか。
何か価値を得られるセミナー動画ではなく、ただ扇動したり売り込むためだけの動画に、「この動画をいつまでに見なくちゃ!」と見事に踊らされてしまうわけです。
もちろん、そうすることで救われる人もたくさんいます。ですが、ほとんどの人は、悪いように踊“らされて”います。
その結果、他のことを置いてでも、色んな広告に時間を割くようになります。副業やビジネスで結果が出ないという人に良く当てハマる傾向が見られます。
ですが例えば、山奥の温泉地とか海際って、街にポスターや広告がとても少ないです。
なので、自分で考える時間が圧倒的増えるようになります。純粋に、外部からの情報ではなくて自分の中から、つまり自分の心の奥から出てくる言葉と対話するようになります。
そういうところで、定期的に「アク抜き」をしていくと自分の進みたい方向が見えてきます。
「あ、自分はこういう方向で進みたいな」とか、心の底から出てくるものが、何となくでも見えてくるんですよ。
あれやこれやと手を出し“続ける”人は、自分の言葉が聞こえていない、と言えます。「これだっ!」というものが見つかったとき、私たちのパワーは今までの限界値を突破します。それがなかなか見つからないから苦労するんですけどね…。
とはいえ、“あれやこれや”とやってみるのも、完全に悪い、と否定することはできません。逆に、何かをやり始めるときというのは、つまり最初のころは色々とやってみる、というのが重要だったりします。
波としての人生と神話のフラクタル
私たちはそれぞれ、神話というのを生きていて、基本的に神話に沿って人生が進んでいきます。
私たちの人生には、必ず『曲線』というものが存在します。
こんな感じです。
↓
1人の「人生」というものを大きな目で見てみると、必ずこのような波になっています。真っ直ぐだったり、ずっと右肩下がりだったり、逆にずっと右肩上がりという人は存在しません。必ず「波」になるのです。良い事もあれば、悪い事もあるのです。
「でも西野さん、そんなこと言ってもずっと悪いこと続きの人はどうなんですか?」という意見もあるかもしれません。が、それはその人が「良い事」に気付けていないだけです。
「私は不幸だ」というフィルターをずっと採用している人は、何か良い事があってもそれをネガティブに捉えていきます。
「私は馬鹿だからだ」「私は昔からダメ人間なんだ」
そういうフィルターを持っている人は、自分の人生が曲線になっていることに気付くことはできません。が、誰しもが必ず「曲線」になっています。まさに『波』です。
海の波、音の波、血液の波、粒子の波、、
人生もまた波なのです。
そして、全ての人の人生に当てハマることを見事に描かれているのが『神話』と呼ばれるものです。
(※画像引用)
ユダヤ教の聖書、キリスト教の聖書、神道の古事記、、
これらは、その物語が1人の人間の人生に、当てハマることを描かれています。より視座の高い視点から見たものが『神話』、低い視点で狭く見たものが『人生』、という風に表現することが出来ます。
犬で言えば、、
犬(神話)
/ \
チワワ(人生) プードル(人生)
こういうイメージです。
フラクタル現象とは…
こういったように、大きな(高い)視点で見たときと、小さな(低い)視点で見たときに同じように見える現象を「フラクタル」と言います。
例えば、目の前にある海を見ていると、小さい波たちがビーチ全体の波と同じように見えます。あるいは、1枚の葉っぱの幹のようなものを見ると、1つの大きな木と同じようになっています。
小さく見ても大きく見ても同じように見える。これがフラクタルです(フラクタルで有名なのは“ボロックの抽象画”で出てきます)。
日本神話や西洋の神話と、1人の人生はフラクタルです。1人の人生を高い視点で見たものが『神話』なのです。
日本神話から学ぶこと
で、その神話においては、人は最初の頃は色々と試して失敗していくことになります。そうして、色んな失敗を繰り返して、次のステージに進む道が見えてきます。
なので、とにかく最初は、色々と経験して失敗する必要があるわけです。
例えば、「ネットビジネス」を知ってから、すぐに成功してしまう人がいます。一見、彼らはそんな神話など関係なく、最初から上手く行ったように見えるかもしれません。ですが、上手くいっている人でも、その前に必ず色んな失敗を繰り返しています。
仮に、副業やネットビジネスを初めてすぐに成功した“ように見えても”、その前には違う事で失敗をしています。たまたま、その人の人生曲線に置いて、ネットビジネスに出会ったときが上にガツンと伸びていく瞬間だったのです。
でも、余りにも低い視点で人の「人生」というものを見ていると、
・妬み
・羨み
・憎しみ
という邪悪な感情が出てきてしまいます。
「あの人は上手くいったのに自分は…」
「もしかしたら自分はダメなのかも…」
「あの人に失敗してほしい」
そういうマイナスな思考が出てくるようになります。しかし、私たちの人生を『神話』という高い視点(視座を上げる)で見ることが出来れば、そういう感情が無くなっていきます。
たとえ、現在の自分の運が悪く感じたとしても、それは1つの人生を通して見たときに「必ず必要なことだ」と理解することが出来ます。
失敗や辛い経験は「通らなければ行けない道」
そういう失敗や辛いことを通して、私たちは強くなり、次のステージに進んで行くのです。なので、今の自分に悪い事ばかり起こったり、嫌な経験ばかりだと思えたとしても、立ち直ることが出来ないと思えるほどの不幸が自分の身に起こったとしても、、、
私たちの人生の『神話』に置いては“必ず通らなければ行けない道”なのです。要するにその人に置ける『修行』なのです。
だから、何か辛いことが起こるたびにクヨクヨと落ち込み続けるのではなく、「これは自分の人生にとって与えられた必要なことなのだ」というパラダイムを持って生きて行けると良いです。
そしてさらにその経験から、「なぜ、こういうことが自分の身に起こったのだろうか?」と意味を考えることも非常に重要です。
そうすれば、例え失敗したとしても、それにいつまでも「う〜ん、どうしよう〜!」と悩み引きずられることなく、その経験が莫大な価値になります。そして、さらに成長した良い自分へとステップアップしていくことが出来るのです。
私たちは、そうして『品のある人間』へと成長していけるのですね。
…ということで、だいぶ太陽がジリジリと地平線に近づいて来たので…この辺で今日は終わろうと思います。
また時間を取って、メルマガ書きますね。
以上、心の中の私からお届けしました。
ラーコーン カッ!
西野之啓