【補足記事】なぜ人生には「苦」があるのか?

 
 
 
いやさか!
 
改めまして、西野です
 
 
 
なぜ、人生には「苦しみ」があるのか?
 
 
 
これは、ひとりの人間として
 
誰しも1度は考えたことがあるであろう
 
大きなテーマの1つです。
 
 
 
これまでの人類の歴史を見ても、
 
この「苦しみ」から抜け出すために、
 
 
 
世界中のあらゆる宗教・哲学
 
をはじめ
 
現在の資本主義の思想も
 
誕生したと言えます。
 
 
 
かつてブッダは、
 
35歳で悟りの境地に達し
 
〝人生とは苦なり〟
 
という教えを説いたと言います。
 
 
 
かの有名な、
 
生、
 
老、
 
病、
 
死、
 
の四苦(しく)です。
 
 
 
さらにここに
 
4つの苦が加わると、
 
わたしたちにも馴染みのある
 
「四苦八苦(しくはっく)」
 
となります。
 
 
 
こうして「人生は苦なり」と聞くと、
 
どこか悲観的な印象を持たれるかもしれません。
 
 
 
しかし、このブッダの教えは、
 
決して悲観的なものではないのです。
 
 
 
本当のところは、
 
「そういうものだ」
 
と受け入れることで
 
悟りに近づくように
 
わたしたちに促(うなが)しているのです。
 
 
 
人間ごころでは、
 
ややもすると
 
「苦しみから逃れたい」
 
と、つよく願うものです。
 
 
 
それが人情(にんじょう)
 
というものです。
 
 
 
しかし、
 
その叶わぬ願いにとらわれる
 
その心こそが
 
かえって苦しみを生むというのです。
 
 
 
反対に、
 
「人生には苦しみがつきものだ」
 
という事実を甘受(かんじゅ)したとき、
 
たとえその身が逆境に陥(おちい)ったとしても
 
「そういうもんだ」
 
と落ち着いて対処できます。
 
 
 
江戸時代の禅僧であり
 
今もなお多くの人に慕(したわ)れる
 
良寛(りょうかん)和尚は
 
大地震の災害に遭った友人へ
 
次のような言葉を用(もち)いて
 
励ましの手紙を送りました。
 
 
ーーー
 
災難に遭う時節には
 
災難に遭うがよく候(そろ)
 
 
 
死ぬる時節には
 
死ぬがよく候(そろ)
 
 
 
これはこれ
 
災難をのがるる妙法にて候(そうろう)
 
 
ーーー
 
 
 
一見すると、
 
冷たく感じるかもしれません。
 
 
 
しかし良寛は、
 
信頼の深い友人へ向けて
 
最大のエールとして送ったのです。
 
 
 
あぁ、災難だ、大変だ、と
 
もがき苦しむのではなく、
 
まずは甘んじて受け入れる。
 
 
 
あぁ、雨だ、嵐だ、
 
と嘆(なげ)くのではなく
 
それを大きな心で受け入れる。
 
 
 
そうしてはじめて、
 
それらを活かす術(すべ)が
 
見えてくるものです。
 
 
 
もちろん、
 
このことを受け入れるだけでも
 
大きな一歩となり得ましょう。
 
 
 
しかし、
 
それだけではまだ
 
この議題の本質に触れていません。
 
 
 
そう
 
なぜ人生には「苦しみ」があるのか?
 
 
 
それは・・
 
 
 
〝真我(しんが)に目覚めるため〟
 
 
です。
 
 
 
西洋的には
 
ハイヤーセルフと
 
言い換えることもできましょう。
 
 
 
つまり、
 
『真の自分』
 
です。
 
 
 
かつて
 
臨済宗(りんざいしゅう)の開祖
 
臨済禅師(りんざいぜんじ)が説いた
 
〝赤肉団上に一無為の真人あり〟
(しゃくにくだんじょうにいちむいのしんにんあり)
 
というところの『無為の真人』です。
 
 
 
赤肉団(しゃくにくだん)
 
とは
 
このわたしたちの肉体のこと。
 
 
 
要約すると、
 
わたしたちのカラダの奥深くに
 
真の自分がいるのだ、
 
ということになります。
 
 
 
わたしたちが
 
いつも(顕在意識で)思っている「自分」とは
 
仏教における自我というものであり
 
それは幻想です。
 
 
 
「わたしってこういう性格」
 
「わたしってこういう好み」
 
「わたしってああいうの嫌い」
 
 
などというものも、
 
仏教では、ことごとく
 
本当の自分ではなく「自我」であると言います。
 
 
 
たとえば、
 
「わたしはこの曲が好きです」
 
という趣向(しゅこう)も、
 
誰か(社会)からの刷り込みによって
 
そう思っているに過ぎないのです。
 
 
 
人は思っている以上に単純なもので、
 
自分の恋する人が
 
「この曲が好きなんだ」
 
といえば、自分も好きになる。
 
 
 
自分が尊敬する人や
 
かっこいいと思っている人が
 
「こういうものがイケてるんだ」
 
といえば、
 
それがあたかも
 
自分の意見であるかのように思う。
 
 
 
「自分ってこういう性格で…」
 
というのも
 
大きくなっていく過程で
 
いつかの誰かが放ったひと言によって
 
それを自分で採用して自我として形成し、
 
そう思い込んでいるに過ぎません。
 
 
 
つまりこの
 
「自我」という思い込み
 
とらわれが強くなっていくほど
 
わたしたちは真我(しんが)から遠ざかっていく
 
のです。
 
 
 
この自我が肥大化(ひだいか)するほど
 
我がままで、自己中心的となり
 
否定されるとすぐに感情的になります。
 
 
 
たとえば、あなたが
 
「人からよく見られたい」
 
という自我(自意識)を持っているとします。
 
 
 
そのために美容室へ行き、
 
おしゃれな髪型にしてもらったのに、
 
自分の心を寄せる人から
 
「その髪型、似合ってないね」
 
と言われると
 
グサッと胸に突き刺さり
 
傷ついたりします。
 
 
 
ただ髪型を否定されただけで、
 
決してあなたの真我を
 
否定してはいないのに、
 
自分を否定されたかのように思う。
 
 
 
人は「自我」を否定されることによって
 
傷ついたり、憎んだり、怒ったりするのです。
 
 
 
しかし、
 
この自我というものを手放して
 
〝真我〟に目覚めた(悟った)人は、
 
 
かりに人前で
 
罵詈雑言(ばりぞうごん)
 
を浴びせられたとしても、
 
心は微動だにしません。
 
 
 
〝真我〟に目覚めた(悟った)人は
 
一切の悩みや苦しみから解き放たれ
 
涅槃(ねはん)の境地・・
 
 
 
つまり、
 
いつどんなことが起ころうと
 
惑(まど)うことのない
 
〝絶対安心の境地〟
 
で生きているのです。
 
 
 
何が起こっても心は平穏なのです。
 
 
 
そして、
 
わたしたちの人生における
 
「苦しみ」というのは・・
 
 
 
わたしたちが
 
この〝真我〟に目覚めるため、、
 
 
 
つまり
 
〝梵我一如(ぼんがいちにょ)〟
 
になるためにこそ経験するのです。
 
 
 
梵我一如とは・・
 
 
宇宙の根本原理である「ブラフマン」と
 
個人の我である「アートマン」とが
 
合一した境地、、
 
 
 
古神道における
 
〝神人合一(しんじんごういつ)〟
 
をするために
 
わたしたちは「苦しみ」を経験するのです。
 
 
 
たとえば、
 
あなたの身近にも
 
嫌いな人や苦手な人がいるかもしれません。
 
 
 
でもそれは、
 
あなたが好き嫌いを超えた境地へと
 
到達するためにこそ
 
その人は存在しているのです。
 
 
 
あなたの自我をそぎ落とし
 
真我に近づくために
 
嫌いだ、と
 
苦手だ、と
 
思うのです。
 
 
 
人は痛みを経験するからこそ
 
ひとの心の痛みも理解できるのです。
 
 
 
むしろ、
 
人の心の痛みを知るために
 
その痛みを経験しているとも言えます。
 
 
 
自分とはこういう人間だ、
 
という自我のとらわれから抜け出し
 
〝真我〟に目覚めるために
 
あらゆる苦楽を経験するのです。
 
 
 
言い換えれば、
 
「苦しみ」から抜け出すために
 
「苦しみ」があるのです。
 
 
 
 
究極的にはあなたが、、
 
 
 
好きも嫌いも
 
良きも悪しきも
 
勝った負けたも
 
愛も憎しみも
 
超えたとらわれのない世界、、
 
 
 
〝生きながらの神様〟
 
となるためにこそ、
 
あらゆる辛苦を経験し
 
あなたの魂をキレイに
 
磨いているのです。
 
 
 
まるで、
 
なんども何度も
 
火にかけられ
 
水をかけられ
 
うたれ打たれて
 
名刀ができるように・・
 
 
 
人生における
 
火と水によって
 
わたしたちは
 
火水(カミ・神)となるのです。
 
 
 
そうして、
 
真我に目覚めていくのです。
 
 
 
そのために、
 
あらゆる「苦楽」は存在しているのです。
 
 
 
 
 
それでは、
 
今回はこの辺で。
 
 
 
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ありがとうございました!
 
 
 
 
イヤサカ
 
西野ゆきひろ